日本の神籬・磐座

 日本では古代祭場のことを昔は神籬(ひもろぎ)と申しました。これは霊天降域、すなわち神が天から降臨される場所という意味で、それは聖なる岩や土地、また御神木でした。なかでも巨石で構築された神籬を、磐座(いわくら)・磐境(いわさか)と呼ぶことがあります。すなわち磐座とは木材による神社建築が始まるはるか以前、縄文草創期以前に古代人が巨石をもって築いた自然(太陽)崇拝の祭場のことで、磐境とは、垣根のように磐座を取り囲んで配置されている添え石です。外国で一般に良く知られているものとしてメンヒル、menhir(立石)やドルメン、dolmenn(机石)やクロムレック、cromlech(半円形の列石)、トリリトン、tririton(2個の立石の上に横長の石を載せたもの)またストーン・サークル(環状列石)が挙げられます。英国のストーン・ヘンジやフランスのカルナック列石またケルト人の残した巨石建造物のなかには同じ流れを継ぐものがあります。山の多い日本では、その多くは天に近い山上に構築されています。ずっと後世になって木材を使って社殿が建てられるようになると、人々は便利にしたがって山麓に下宮を造るようになります。さらに人々の間に便利主義が高まり、自分たちの住んでいる里の近くに里宮を造り、次第に山麓の下宮を忘れ、山頂にある元宮としての磐座をも忘れ果ててしまったのです。しかし、奈良の大神神社のように、両者が密接しているところでは、背後の三輪山の磐座を神社の本殿として祀り、その山麓にある社殿は拝殿のみを置くとしています。つまり神社建築としての本殿はありません。裏山にある磐座を今も本殿として祀っています。また、西宮の越木岩神社は、磐座と神社建築が同一境内にあります。しかし大方は里宮としての神社は磐座のある山から遠く離れ、この両者の関係は忘れ去られ、神官でさえ知らない場合が多々見られるのが現状です。しかし、祭典儀式のなかに残存している場合があります。例えば、京都の上賀茂神社です。本殿に向かって左側の方へ少し歩きますと小さな立て札が立っており、そこに「御神山」と書かれています。その立て札のはるか彼方を展望すると、そこには丸い美しい山があります。その山に元宮としての磐座があるのです。したがって祭典の時には、その磐座から御祭神を迎えるという原則が今も残っているのです。

 このように磐座は日本文化の淵源を示す貴重な文化財ですが、実はその多くは文化財として指定されることなく、最近の開発によってゴルフ場や会社の寮の建設のために破壊される場合が多々あります。神戸の裏山である六甲山へ登ると、いくつかのゴルフ場があり、それを展望すると巨大な石があちこちに残っています。これはそこに昔、磐座または磐境があったことを示しています。六甲山の上には300を越えた会社が寮を建て、人工スキー場などもありますが、こうした開発が進むごとに古代の祭場が破壊されるとは、まことに痛ましいことです。

 その理由は、戦後の日本社会において、古墳時代以前の日本文化に関する研究が一種のタブーになってきたからです。なぜ、タブーとなったかと言いますと、それは第二次戦争に対する日本人の反省と批判から生まれています。終戦前の日本の軍国主義政府は「神国日本」を主張するために、古事記に書かれている思想を利用したのです。つまり太陽神(天照大神)の直系である天皇陛下が治める日本は、比類なき「神の国」であるから、大国アメリカの侵略からアジアの小国を守り東亜共栄圏を築く使命をもつ、としての戦争の正義を説明したのです。このような軍国主義政府に対する批判は必要ですが、その政府が利用した『古事記』に書かれている神代の思想は、本来いかなる国家とも無縁のものなのです。つまり、それは国家発生以前のはるか昔の氏族制度の時代、自然崇拝、太陽崇拝の時代の世界観で、国家のナショナリズムとは無関係なものなのです。しかし、それを戦前の日本政府は利用したのです。ですから戦後、私たち日本人は軍国主義政府を批判するのみならず、それから『古事記』の思想を切り離して考え直さなければならなかったのです。

 しかし現実には、日本人の国民性と言いましょうか、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」というように、『古事記』をも忌み嫌い、政治と切り離して研究することを避けてきました。古墳時代以前の日本の歴史を探究しようとすると、それこそ日本文化の淵源に関わる重要な問題なのですが、何か、右翼に傾くのではないかとか、軍国主義の復活に連なるのではないかと、疑われ危険視されるという風潮がずっと続いており、政府をはじめ学者も市民もそのことに触れることを避けてきたのです。したがって、戦後、磐座・磐境を文化財として指定・保護すべき国・県・市の関係者は、大学でそのように教えられなった、または磐座に関しては殆ど習っていない。そこで、知らないことは分からない、分からないことは間違っていると考えたり、責任を問われたくないという理由で、問題をごまかし盥回しにしてきたのが戦後の行政です。

 たとえば、六甲山の麓の芦屋市には、直径4メートルの「八咫の鏡」岩があります(後出)。それなどはひとたびはその鏡石を御神体として神社ができたほど、周囲の人々の尊敬を集めていました。しかし戦後になると丸裸にされ、文化財の指定も受けられず山野に放置され、その脇1メートルのところまで芦屋大学が校舎を広げるという危機状況にあります。私は、国境なき時代を研究するために、今残存する磐座を探査することになりましたが、その研究対象が以上のような危機状況にあることを知り、これらの保護を訴えるためにも、調査・研究して世にださねばならないという使命感を抱くことになりました。実際、このような歴史的文化財はいったん破壊されると、もはや私たちの手では復元することはできません。いずれは国や県の保護を受けることになるとは思いますが、それまでに破壊されてしまったのでは取り返しがつかないということです。

 それでは、その磐座とはどのような形状をしているものかを、まず日本の磐座からビデオによって皆さんに紹介いたします。次に昨年南米に行き、ペルーの遺跡を廻りました。そこにある遺跡のほとんどは太陽崇拝の祭場です。多くのピラミッドがあり、リマの大学の考古学者である友人は、リマ郊外の発掘に従事していますがそこにはピラミッドが32基存在すると言います。その後ペルー北部のトクメ、Tokumeへ行きました。最近ピラミッドが発見されたという町ですが、そこにはピラミッドが26基あるということでした。海岸沿いの砂漠地帯では雨の降らないことを前提として砂で作ったアドベという日干し煉瓦でピラミッドを建てるので、今年のようにエルニーニョ現象による大雨が続くと表面の美しい彫刻が流され、また長年の風化も手伝って外観はただの砂山に見えたため、長く見逃されてきたのでした。確かに信じられない数の太陽崇拝のピラミッドや神殿があります。そのなかのマチュピチュ遺跡を取り上げます。そして同じ太陽崇拝の祭場として日本の磐座との類似性や原則における共通性のようなものがあるか否かを検証したいと思います。

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